暮らしに“豊かさ”のスパイスを添える、私とパンの物語

コラム・アラカルト

LIFE STYLE
2025.06.09

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昔から、食べることが大好きだった。

幼い頃、姉と二人で食パンを丸ごと1本、柔らかな白い部分だけを器用にくり抜いて、トンネルのように食べていたらしい。

耳が残っているから見た目は普通の食パンと同じ。ひょいと持ち上げた母がその軽さに驚き、私たちの小さなイタズラはあっけなく見抜かれてしまった。

小学生になってもその食いしん坊ぶりは健在だった。授業が終わると、部活までの短い時間を惜しんで家までダッシュ。おやつをしっかり確保してから満足気に学校に戻るのだ。給食のおかわりジャンケンはもはや常連で、”食いしん坊”というより“食い意地”という言葉の方がしっくりくる頃だったかもしれない。

食べることが大好きな私は、やがて作ることにも興味を持ち始めた。

高校生の頃には、塾に行くふりをして、母に内緒でひっそりパン教室に通っていた。周りはほとんど主婦で大人ばかりだったけれど、パンを作ることに夢中だった私は無我夢中で没頭した。

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大学生になると、パンのことばかり考える毎日が続いた。

海外のレシピサイトや専門書も、翻訳ツールを駆使しながら懸命に読んだ。加水率や焼減率、天然酵母の化学、小麦粉の種類による食感の違いなど、文系の私にはクラクラするような内容だった。だから、初めて上手にクープ(パンに入れる切り込み)が開いて、納得のいくパンが焼けた時の感動は、今でもはっきりと心に残っている。たくさんの写真を撮り、その時のレシピや状況を詳細に書き留めた。

大学の授業よりも、どうしたらおいしいパンが焼けるかばかり考えていた私に、思いがけずマルシェ出展の話が舞い込んだ。オーブン1台で、約15種類200個近くのパンを徹夜で焼き切った。不思議と疲れは感じなかった。ランナーズハイならぬベーキングハイ状態。幸せな高揚感に包まれていた。

一丁前にスランプも経験した。ハードパンのクープがうまく開かなくなったのだ。その時は、毎日同じパンを焼き続けた。レシピの配合や発酵時間、焼き方を微調整しては、失敗したパンが冷凍庫に溜まっていく。
そんなパンを「おいしいよ」と言って食べてくれた家族には、今でも感謝しかない。パンを突き詰めたいという私の気持ちを、誰よりも尊重してくれていた。一つのことに夢中になると深く突き詰めたくなる性格は、きっと父譲りなのだろう。

あの頃の私は、パンの沼にどっぷりハマっていたのだ。まさにパンオタク。

「推し活」という言葉がその時代にあったなら、間違いなくパンの箱推しをしていただろう。

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もちろん、休日には焼きたてのパンを買いに行く時もある。扉を開けた瞬間に包まれるあの香ばしい香りは、どんなアロマより私を満たしてくれる。
私のパン愛は周りに伝わっているようで、職場でも、新しいコミュニティでも、ありがたいことにおすすめのパン屋さんがあればみな親切に教えてくれる。

特にパン好きを公言したつもりはなかったけれど、きっと会話の端々に私のパンに対する愛情があふれていたのだろう。

ちなみに、初めてのパン屋さんに行く時はちょっとした「マイルール」がある。それは、必ずそのお店のクリームパンを買うということ。なんだか”ツウ”な雰囲気を醸し出しているが、特別な理由はない。自分ではクリームパンを作らないからだろうか。マイルールというよりは、小さなルーティンに近いのかもしれない。昔ながらの素朴なクリームパンを見かけると、うれしくなってしまう。

不思議と、考えがまとまらない時や心がざわついている時にパンを焼きたくなる。パン作りは、私にとって一種の瞑想に近いのかもしれない。柔らかなパン生地が手に触れる感覚、ぷくぷくと一生懸命発酵していく姿、それらすべてが愛おしい。

学生の頃に比べると、パンを焼く機会はめっきり減った。それでも、かっこいいパンを見ると、私の眠っていた”パン魂”が再びメラメラと燃え上がる。
まとまった時間が取れない時は、少しのイーストを使い冷蔵庫でゆっくり発酵させるレシピで作ることが多い。

夜にパン生地を仕込んでおけば、翌朝、焼きたてのパンの香りとともにゆっくりと一日が始まる。

休日の朝、自分で焼いたパンを味わう。ささやかだけれど確かな”豊かさ”の証だ。出来上がったパンがヘンテコな形をしていても、ちょっとばかり発酵に失敗していたとしても、それはまぎれもない”ごちそう”なのだ。

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焼きたてのパンを愛おしく眺めたあとは、バリスタ気取りでちょっと得意げに、コーヒーをていねいに抽出する。

王道のハンドドリップからエスプレッソマシン、フレンチプレス。パンに合わせて淹れ方を選ぶ時間も、私にとっては極上のひとときだ。日常の中で、手軽にできるささやかな贅沢。それが、私が人生をかけてハマっている趣味かもしれない。

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そして今日も、パンを焼く。
暮らしに“豊かさ”というスパイスを、そっと添えるために。

フォカッチャ


材料

  • 強力粉…400g
  • 水…320g
  • 塩…7g
  • ドライイースト…3g
  • オリーブオイル…12g

作り方

1. 水にイーストとオリーブオイルを加えて混ぜる。
2. 強力粉と塩を加えて、ゴムベラで粉気がなくなるまでよく混ぜる。
3. 生地が乾燥しないように、ラップをして30分休ませる。
4. 生地を外側から内側に折りたたむように一周パンチを入れる。
5. ラップをして30分休ませる。
6. 4と同じようにパンチを入れる。
7. ラップをして冷蔵庫に入れ、オーバーナイトで一次発酵させる。
8. 翌朝、生地が2倍になっているのを確認し、トレーに移す。
9. ラップをして生地が2倍になるまで二次発酵させる。
10. オリーブオイルを垂らして指で穴をあけ、お好みでトマトやハーブを散らす。
11. 230度の予熱したオーブンで25分焼く。
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