〇〇なときは映画に逃げろ!! ~第2回 永遠の愛を信じたくなるとき~ 後攻:屈強な黒人男性ちゃん「ゆれる(’06)」壊れた愛を取り戻せる?

2017/11/01 UPDATE

1 What Am I doing ?

菊の薫る夜長の季節がやってきました。屈強ちゃんです、こんにちは。


食欲の秋、実りの秋、スポーツの秋、読書の秋、そして映画の秋。それぞれの秋を皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は引きこもっています。完全に睡眠の秋です。起きて映画を見て寝て起きて飯食って映画を見てまた寝る、その繰り返しです。

最高にぐうたらしてます、とっても幸せです。


ところで皆さん、近々ウナギを食べる予定はありますか?というのも、ウナギのシーズンはまさに今、晩秋から初冬にかけてなのです。土用の丑の日のイメージが強いと思うので夏が旬だと思っていた方、きっといたのではないでしょうか。私はひつまぶしが食べたいです。


あ、旬の食べ物にまつわる思い出話を聞いて下さい。


私が中学生だった頃、まだ保育園に通っていた、本当に小さかった弟とサツマイモを巡り喧嘩をした事があります。今思い返すと、とてもくだらないんですが当時は真剣でした。


簡単な話、焼き芋を二つ買って、私も弟も大きい方が欲しかったんですよね。なかなか譲らない私に「お姉ちゃんのやつの方が美味しそうだから交換してよ」としゅんとする弟をみて、私は結局折れました。


しかしその後、なんと弟が夕飯を食べず母に怒られた際に、咄嗟に「お姉ちゃんにお芋さん沢山食べさせられた」と言ったのです。物凄く幼稚で馬鹿げた思い出なのに、その時の怒りと、怒りを通り越した後の悲しみを今でも鮮明に覚えています。


好きだから、誰よりも大切だから、裏切られたと知り物凄く悲しかったんです。


さてさて、今回のテーマは「愛を信じてみたいと思った映画」です。今のサツマイモのくだりなんだったん...絶対いらんやん......って思ったそこの貴方。


安心して下さい、ちゃんと関係あります。


このテーマに対して私が紹介する作品は「ゆれる」です。西川美和監督の作品は胸をちりちりと焼かれるような、繊細な心理描写と容赦なく胸を抉る切なさがあります。


「あの橋を渡るまでは、兄弟でした」というキャッチコピーのこの作品は、私にとって邦画で5本の指に入るくらい、特別な思い入れのある一本です。


ゆれる 2006/日本/119分
監督・脚本:西川 美和
視聴可能サイト:iTunes

2 東京で暮らす弟/田舎で暮らす兄のスレ違いがどこまでも悲しいストーリー

『ゆれる』発売元、販売元:バンダイビジュアル 発売中|価格:DVD 3,800円+税
(c)2006『ゆれる』製作委員会

母の一周忌に、東京に暮らすカメラマンの猛は実家へと帰省します。

上京した頃から何一つ変わらぬ、優しさが滲み出るような雰囲気を持つ兄の稔は、廃れたガソリンスタンドを経営しながら父と二人暮らしを続けています。


帰省した猛は、帰省したその日、稔が密かに想いを寄せる幼馴染で、同じガソリンスタンドで働く智恵子と再会します。実の兄の恋心を知っていながら、猛は智恵子の家に上がり込み、その夜二人は、体を重ね、智恵子は猛へと惹かれていきます。


翌日、猛と稔と智恵子の三人は、稔の提案で近くにある渓谷へ出かけます。

しかし、そんな中、稔と智恵子が吊り橋を渡っている時、智恵子は川へ転落し、命を落としてしまうのです。


智恵子の死は不幸な事故なのか、それとも稔が殺したのか。

決定打を欠いたまま裁判が進むなか、次第に優しかった兄の中に眠っていた本音を知り、猛は兄への不信感を募らせていきます。

そして、ストーリーの後半、証人喚問の壇上に上がった猛は、実の兄の殺人の事実を法廷で語り始め、稔の実刑が確定し…


というあらすじなのですが、「東京で自分のセンスを武器として、スマートに暮らす弟」と、「田舎に残り父と堅実に、そしてどこまでも慎ましく生きる兄」という対象的な二人の生き方と、兄弟二人のそれぞれがそれぞれに抱く微妙なコンプレックスが丁寧に描かれており、胸をギュッと締め付けられる作品になっています。


そして、この兄弟のキャスティングが素晴らしいのです。都会で暮らす弟をオダギリジョーが演じ、田舎に残り寂れたガソリンスタンドで働く優しい兄を香川照之が演じています。


オダギリジョーのセクシーさはもう、見るだけで生きていることに感謝するレベルなのですが、香川照之の演技力に圧巻されます。まさに、目で魅せる演技。セリフを超えるメッセージが場面場面で表情から伝わってくるのです。むしろ、セリフのない静かな場面のほうが情報量が多いようにすら思えます。これはまさに映画の醍醐味といえるのではないでしょうか。

3 切っても、粉々に砕こうとしても、壊すことが出来ない愛

この映画は、仲の良い兄弟が、一人の女性の死によって、だんだんとすれ違っていくストーリー構成になっています。

お互い信頼し尊敬しあって生きてきたはずなのに、それぞれが無意識のうちに相手に抱いていた妬み、不信感が、ひとりの女性の死をきっかけに明らかになってしまうのです。


物語の前半、智恵子を殺した容疑で兄が逮捕されたあと、弟の猛は親戚の弁護士に大金を払って兄の弁護を依頼したり、足繁く面会に訪れ、兄の今後の人生の話を温かい言葉で励まします。


「大丈夫、また、みんなの待っているガソリンスタンドに戻れる。お父さんも兄ちゃんを待っている。」

しかし、弟のそんな温かな励ましの言葉こそ、兄をもっとも辱めるものであったのです。


兄はついに本音を語り出します。「お前(猛)の人生は、本当に素晴らしいよ」と。これまで見たこともないような冷たい目で、悪意に満ちた唇で、弟を責め立てはじめるのです。


豹変した兄の態度、そして胸の内に秘めていた本音を猛は受け止めることができずに、動揺し、その不信感から、法廷で兄に不利な供述をしてしまいます。


「なんでだよ。どうしてオレを信じてくれないんだよ」

冷たく笑う兄に椅子を投げつけて猛はそう言います。


しかし、実の兄弟を信じていなかったのは、兄だけなのか?兄が自分を信じてくれなくなった理由は、自分自身の行動にあったのではないか…。

劇中では明言されませんが、猛が兄を殺人犯にしてしまう証言をするに至った理由は、ほかならぬ自分自身が兄を裏切った”うしろめたさ”と、心のどこかではずっと兄を見下していたのだという“やましさ”を直視できなくなったからではないでしょうか。


ここまで書くと、どこがどう「永遠の愛」に関係するのか?と思う方も多いと思うのですが、大丈夫。大丈夫です。まだ、続きがありますから…。


七年後、兄の刑期が終わって出所することを知らされた猛は、再会を拒みます。

しかし、猛は部屋で母の遺品の8mmフィルムを見つけます。そのフィルムに収められていた映像は、かつての父と母、そして、智恵子が死んだ渓流で楽しそうにはしゃぐ稔と猛の姿だったのです。


幼いころの自分と兄を食い入るようにじっと見つめながら、猛は物語のなかで初めて、本当の涙を知ります。そして、彼自身が、兄から一方的にすべてのものを奪い続けてきたのだと、気づくのです。


止まらない涙をぬぐうこともなく、猛は兄のもとへと車を走らせます。

「あの橋は、まだかかっているだろうか?」

そんな思いを胸に、兄弟の仲を違えることになったあの橋を、猛は7年の歳月を超えて、もう一度わたろうと決意するのです。


出所した兄の後ろ姿を見つけ、猛は必死で叫びます。「また一緒に暮らそう」「兄ちゃん」。

振り返った兄は、七年前と変わらない優しい微笑みを浮かべ、そして劇は終わります。


一度は縁を切ろうと、殺人犯に仕立て上げ、罪人に貶めた兄に対して、自らの罪を認め、壊れかけた兄弟愛を取り戻そうとする弟、そしてそのきっかけとなった8mmフィルムという時を超えた母の愛情。


どんな不幸な事件があっても、どんなすれ違いがあり、お互いがお互いを信じることが出来なくなったとしても、かつて存在していた愛を、なかったことにすることは出来ない。


前半から後半までの悲しいストーリー展開にも関わらず、見た後の感想は、永遠に存在する愛というものを信じてみたい、そう思える作品です。


読者の皆様が、距離が離れてしまって、最近連絡をとっていないご家族に、ひとつ、便りを書くきっかけになってくれればと思っています!


では!また逢う日まで!


先攻の加藤さんにお返しします!

投稿者名

屈強な黒人男性ちゃん

屈強な黒人男性とオッサンと映画と音楽が好きな変人です。
Twitter:@999Aeromarine