瞬間小説~秒で読むショートストーリー~

2018/06/04 UPDATE

第5回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞し、第49回星雲賞長編部門の参考候補作にも選出されたSF界の超新星(スーパーノヴァ)、樋口恭介先生がおくるアイスム発の本格小説コーナー!第4回目をお届けいたします!

天使たち

族長の家は丘の上にあった。わたしたちが暮らす高台よりも、さらに上のほうにその家はあった。そこは集落の中で一番高い場所なのだと天使たちは言った。扉はいつも開け放たれていて、昼のあいだじゅう山の風が吹き抜け、木の葉や草花を揺らしていた。村の人々はそこに集まり、楽器を鳴らして歌をうたったり、本を読んだりして過ごした。

子どもが静かな寝息を立てていた。わずかに潮の匂いをともなったゆるやかな風が、読み途中の本のページをぱらぱらとめくり上げた。子どもの母親はそれを手に取り、本棚にしまった。本棚の上には、古びたラジオや木彫りの人形、腕輪や首飾りが並べられていた。首飾りは、透明な石に穴を開け、縄を通したものだった。母親は、それを手にとると窓の側まで歩いていき、光に透かしてそれを見た。光は石を通過して、分かれてはまた重なり、母親が着ていた赤色の服の上に、白色の幾何学的な模様を映し出した。母親はそれを見た。母親は、それを見てきれいだと思った。

族長の家にはたくさんの窓があった。窓から外を眺めると、海の向こうまで見渡せた。山から海に向かっては、大きな川が三本走り、川ではときどき魚の跳ねる姿が見えることもあった。山間には、雨風をしのぐため、かやぶきを加工して作った家々が立ち並び、それらのあいだを縫うようにして、段々畑に実った麦が、春の雨があがったあとの緑色の雫を、小さな穂先にたたえていた。風が吹くと、雫は穂先を揺らして落ち、わずかに土を湿らせた。湿った土は草や木を育て、草や木はやがて花を咲かせた。花には蝶や虻などの虫たちが集まった。天使たちはそう話した。天使たちが語る、そうした昔話を聞きながら、わたしたちは、かつて存在した、わたしたちだった者たちの故郷のことを、頭の中に思い描いていくのだった。

日が昇る。鐘つきの少年が鐘を鳴らす。鐘は丘の上にあり、鐘の音は、そこから集落中に響きわたる。村人たちはその音を聞いて目を覚ます。鐘つきの少年は力が足りず、ときどき休憩をとりながら鐘を鳴らす。少年はその場に腰を下ろし、首からぶらさげた布で汗をふきとり、ブリキ缶を手に取って、口まで運ぶ。ブリキ缶には川から汲んだ水が入っている。少年はそれを飲む。しばらくそうしたあとで、少年はふいに立ち上がり、再び鐘を鳴らし始める。少年はそれを繰り返す。一〇回目の鐘が鳴らされるころには、村の人々は家を出て、たがいにあいさつをかわしあい、漁に向かったり農作業に向かったりと、それぞれの持ち場に出かけていき、日が落ちるころに彼らは持ち場を離れてゆき、それぞれの家に帰っていくのだった。

空にはたくさんの天使たちがいて、滑空したり、旋回したり、ただ単に羽ばたいてみせたり、あるいはゆったりと翼をなびかせながらその場に居座ったりと、思い思いの仕方で飛び交いながら、空の上から集落を見下ろしていた。集落にはぽつぽつと家の明かりが灯っていた。ときどき霧が出てくると、明かりは空気の中に溶けて滲んでいくように見えた。天使たちによれば、それはとても美しい景色だったのだと言う。

「失われた風景が思い出されるとき」と天使たちは言った。「思い出されるものは、どんなものであっても、たとえそれが過去の苦しみや悲しみや痛みをともなうものであったとしても、それは美しいものなのです。きれいなものも、きたないものも、分け隔てなく、どんなものでも。誰にとっても。たとえ、思い出そうとするその人が、思い出されるその風景を、かつて見たことがなかったのだとしても。何かを思い出し、それについて話すということは、そういうことなのです」。天使たちはそう言った。あなたたちだって、そうでしょう?と天使たちは続けた。わたしたちはどう答えてよいかわからず、しばらく考え、やがて答えを決め、答えを決めたあとにも少し悩んでから、最後に小さくうなずいた。

やがて夜になると、人々は集落の中心へと向かった。彼らはそこで宴を始めた。火を起こし、料理を囲み、酒を飲み、それから歌をうたった。ときどき火に薪をくべ、炎の量を調整し、鍋の中身をのぞきこんだり、丸太に吊るした肉の焼き加減を見た。薪を足すと、そのつど大きく煙が上がり、芋を煮る匂いや肉を焼く匂いが鼻をくすぐった。彼らはそれらの煙の匂いを嗅ぎ、酒を進めた。若者たちは、大人たちに言われ、皆で族長の家から酒樽を運び出した。酒がなくなると、また別の酒樽を運び出した。女たちは集落の周りで見張り番をした。松明と槍を持っていった。女たちは一列になって移動し、松明の炎もまた、きれいに列を作って動いていった。天使たちはそれを眺めていた。夜更けも近づいたころには、天使たちの翼は白く光り、灯台のように海面を照らしていた。

朝になるまで宴は続いた。若者たちは夜のあいだじゅう、次から次へと酒を運び続けていた。酒を飲むごとに、大人たちはますます元気になった。彼らは大声を上げて笑いあった。話し声や笑い声は山の奥まで響きわたり、山の精霊たちはそれをまねて遊んだのだと言う。

女たちは見張りを続けた。松明の火がぱちぱちと音を立て、女たちの耳をくすぐった。松明の弾ける音をかいくぐるようにして、女たちは小さな声で冗談を言って笑った。

やがて笑い話の種が尽きると、話題は子どもたちのことに移っていった。子どもたちを都会に出すべきかどうかを話し合った。どこかでフクロウの鳴き声が聞こえていた。わたしたちはそれを知らない。けれど、かつて、わたしたちの母親だった人も、そこにいて、フクロウのその声を聞いたのだ。天使たちがそれを教えてくれた。天使たちが見た未来には、ビルの隙間から夕陽がこぼれ、かつての子どもたちの頬を赤く照らした。部屋からは街が見渡せた。彼女たちは泣きやまない赤ん坊をあやした。男たちは金融街に出かけていた。企業買収のための投資価値を計算し、夜が更けても帰ってくることはなかった。かつての子どもたちは泣きやまない赤ん坊を一人であやし続けた。朝になるまで、朝がやってきてもあやし続けた。

「ママのお腹の中にいたときにね、わたし、天使を見たんだよ」と娘は言った。「窓から光が差してね、オレンジ色に光ってて、ビルの屋上で天使が座ってたの。綺麗だったなあ。ほんとに綺麗だったよ。羽をとじたりひろげたりしてね、夕陽の色がそこに映りこんでね、きらきら光ってたの。ほんとだよ、わたし、ほんとに見たもん。天使はそこに座って、じっとわたしたちのことを見ていたの。きっと、わたしたちのことを見守ってくれてたのよ。わたしのことも、ママのことも。きっとそうよ。そうに違いないわ」。そう言って娘は微笑んだ。綺麗だったな、とっても綺麗だったなあ、と繰り返しながら。

いつかの夜、誰もが眠ってしまったあとで、かつてわたしたちだったわたしは夢を見た。わたしは集落の中にいて、宴のあいだじゅう見張りをして過ごした。天使たちが頭上を飛んでいた。翼は白く光り、灯台みたいに海面を照らしていた。

わたしたちは冗談を言いかわした。山の精霊たちがそれをまねた。それを見た天使たちが楽しそうに笑った。天使たちはいつまでもそれを覚えていた。地球が滅び、宇宙が消えて、また別の宇宙が生まれてからも、彼らは何度でも蘇り、そのたびに思い出を話した。彼らはいつまで経っても、楽しかったその思い出について話し続けた。かつてわたしたちだったわたしはそれを聞いていた。わたしたちにはそれが聞こえていた。そして、やがてまた、かつて娘だった娘の声が、山の向こうから響くのが聞こえてくるのだった。

声は言った。
綺麗だったな。
綺麗だったな、とっても。

投稿者名

樋口恭介

SF作家。『構造素子』で第五回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。
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