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バイオリン奏者から人生急転落。邦楽で再起した男・常磐津千代太夫の波乱な人生。

2017/07/20 UPDATE

極彩色のシャツをまとい神楽坂の街を歩く姿から、彼をムッシュと呼ぶべきか、紳士的でありながら軟派な印象も同時に受ける。彼は、常磐津千代太夫、83歳。歌舞伎座で喉を震わせる邦楽家だ。伝統芸能に仕える彼だが、その人生は急転落から動き始まる。彼は、どのようにして今に至ったのだろうか?

PROFILE

常磐津千代太夫(83)邦楽家

  • 出身:山形県
  • 座右の銘:人に親切に
  • 得意技:バレーボール(中学時代バレー部)
  • 好きな食べ物:ゼンマイ、山菜、中トロ
  • 嫌いな食べ物:
    味よく煮れば何でも食べられるからなし

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

Interview

―とても鮮やかですね

昔から地味が嫌いでね。小さいころでもハンカチにアイロンをかけていたくらいですから、おしゃれは好きでしたよ。誰に迷惑をかけるでもなし、あの人地味だねとは言われたくないんですよ。洋服だけじゃなくて指輪でも時計でも。
そういえば5~6年前、飲み屋の代金の肩代わりにロレックスをお店に置いて行ったらそのまま持ち逃げされてね。足りなかったのは1000円ちょっと、すぐに払うと行ったのに、悔しいなぁ。

―常磐津さんのご職業は何ですか?

自分は邦楽家。常磐津節っていう、江戸時代に生まれた江戸浄瑠璃のひとつをやっていて、昔は歌舞伎座や国立劇場、地方のいろんな劇場で公演をしていましたね。あとはNHKや海外でも。それにレコードも出してるんですよ。昔はちょっとした有名人だったけど、今ではすっかり落ちぶれてしまったね(笑)。あとは料理人かな。今は息子にほとんど譲ったけど、神楽坂で「お腹袋」って店をやっています。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―邦楽家になった経緯は何ですか?

それがね、初めは常磐津節のことは何にも知らなかったんですよ。小さいころから音楽は好きでしたよ。けど私が練習していたのはバイオリンでしたから。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―バイオリンですか?

そう。兄貴が私に音楽をやらせるのが好きでして、ギターもバイオリンも買ってもらいましたね。小学生のときは零戦のパイロットになるのが夢だったけど、なんでバイオリンだったんだろう。朝6時半に起きて1時間レッスンしていました。独学でイタリア民謡の「サンタ・ルチア」も歌っていました。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―いつ邦楽の道へ進まれたんですか?

紆余曲折あって20代前半くらいかな。まず、旧制中学を出たあと、音楽を勉強したくて山形から東京の日本音楽高等学校というところに入りました。そのころの上野駅には物乞いがたくさんいたね。このときは音楽の先生になりたかった。バイオリンの他にも声楽も勉強しましたね。でも、しばらくすると親父が亡くなりまして資金が届かなくなった。それで学校を辞めて地元に帰ったんです。

―音楽教師への道が断たれたんですね?

そうなんです。でもやっぱり東京に戻りたかったんですね。戦前に蒙古開拓団で活躍した加藤完治先生が山形に講演しにきたときに出向いて、音楽がやりたいと伝え、書生として東京に連れて行ってもらったんです。いわゆる鞄持ち。それで数年したら加藤先生に「君、きれいな声をしているから常磐津ってものをやってみないか」と言われたんです。常磐津もなにも知らなかったですが、日本の音楽をやってくれないと伝統がなくなるからやりなさいと言われたら断れないじゃないですか。それで常磐津が何かわからないまま邦楽の世界に入りました。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―常磐津はどのように学びましたか?

まずは柳橋の常磐津の三味線の家元・岸澤式佐師匠の内弟子に入ったんです。ただ、入ったはいいが何も教えてもらえない。朝5時に起きて寝るのは2時。やることと言えば便所掃除から使いっ走り。やっぱり唄がやりたいのに、これでは先がないと思って師匠のところを出て、三東勢さんのところに入り、その後千東勢先生のところで修行をしました。

―修行中、辛かったことと楽しかったことは何ですか?

辛いのは、お稽古をつけてもらえなくて雑用ばかりしていたときですね。かなり怒鳴られもしましたし、お給料がありませんでしたから。楽しかったときは、千東勢先生のところで芸を教えてもらったり花柳界に連れて行ってもらったりしたときですね。あとは銀座の料亭「花蝶」さんのおやっさんには同郷ということもあり目をかけてもらい、いろんな人を紹介してもらったり、大事にして頂きました。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―料理屋はいつ始めましたか?

20代後半だったね。もとは池袋でおでん屋さんを始めたんですよ。だって若いと収入が少ないでしょ?味付けは関西風にして、結構流行りましたよ。歌舞伎俳優の故・尾上梅幸さんがよく来てくれました。あとは故・勘三郎さんや尾上菊五郎さんも。私が公演でいないときは家内が店番をしてくれましたね。で、その後に神楽坂で家庭料理屋を始めたんです。

―お店「お腹袋」の由来は何ですか?

5代目柳家小さん師匠がしょっちゅう飲みに来て下さってね。うまい名前はないかと相談したらかみさんがおふくろみたいだからって付けて下さったんです。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

―これからの夢は何ですか?

お弟子さんにきちんと芸を伝えること。私の芸風、師匠から受け継いだものを今度は教えていきたいですね。あとは若い女の子とお酒を飲んでたくさん話したいです。ちょっとすけべな話ね。40~60歳くらいがいいですね。そのくらいが一番の女盛りですから。人生あと1年か2年かもしれないですからね。

PHOTO:西田周平PHOTO:西田周平

TOKYO GRAFFITI

街で見かける「普通の人」の「普通の日常」を写真で切り取る創刊12年目の雑誌「TOKYO GRAFFITI」。
若者、ちびっこ、お年寄りから、セクマイ、ギャルなど、登場するのは一般人ばかり。
まさに街にいる人々のいろんなリアルを写真で切り取るドキュメンタリー・メディアです。
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