料理ができるって、なんだろう

〈編集部通信〉

LIFE STYLE
2021.08.17

「となりのおうちの『1週間ごはん』」という連載があります。

となりのおうちの「1週間ごはん」

ふつうの毎日のふつうのごはんの中にこそ、しあわせがある…

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これは「となりのおうち」、つまり一般のご家庭にお願いして、一週間のごはんを写真に撮ってもらい、お話を伺うというものです。

ライター崎谷実穂さんが取材で聞いてくださる家族の風景と、カメラマンの村上未知さんが切り取ってくださる家族の素顔。それぞれの家族のなにげない幸せに、私も毎回なんだかハッとさせられる連載です。

これを企画したのは、一週間のうちには「がんばる日」も「がんばらない日」もあって、写真に撮って残したくなる日も、撮るほどでもない日もある。でもそれらをすべて通して見たとき、「ふつうのおうちのふつうのしあわせ」みたいなものが浮かびあがってくるんじゃないかな、と思ったからです。

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実際この取材を続けていると、一週間のうちには何品も食卓に並ぶ日もあれば、冷凍食品の日、テイクアウトの日、ウーバーイーツの日、回転寿司に行く日、父子でファミレスに行く日、子どもが作ってくれた日…いろいろな食卓が見えてきます。

企画を考えたときにぼんやり頭にあった「ふつうのおうちのふつうのしあわせ」が、ほんとうに、その一週間のなにげないごはんの中にしっかりあるな、と、改めて感じています。

SNSにアップしたくなるごはんもすてき。でも、そうじゃない日のごはんにも、準備する人の思いやりがちゃんとこもっていることが感じられるのです。

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一方で、いろんな話を伺う中で、そして私自身が「家族の日々のごはん作り」を担当する中で、やはりその負担の大きさやプレッシャーについてもよく考えます。

日々のごはんを準備することというのは、家事の中でも時間的にも物理的にも、そして心理的にも、特に負担の大きいことです。それが重荷になったりプレッシャーになったり、はたまた自己肯定感を下げてしまうものになってしまうのは辛いものです。

なので、アイスム編集長とはいつも、料理で「自己肯定感を上げる」のはもちろん良いけれど、「自己肯定感を下げる」人をゼロにしたい、と話しています。

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特に女性は、「料理のできる人」が、「良い女性」のように捉えられてきたところがどこかあったように思います。「花嫁修業」なんていう言葉もあったくらいなので、結婚する時は料理ができて当然、という思い込みもあったかもしれません。

なにを隠そう私もたぶん長い間、そう思い込んできた部分がありました。結婚し、出産し、共働きでずっと仕事を続けながらも、「自分が料理できなきゃダメだ」と。

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だけど、そもそも家庭における料理は、生活の一部です。それができることが人としての「価値」を上げたり、できないからと言ってその「価値」が下がったりするわけではありません。そこに工程がある限り、勉強やスポーツと同じで、最初はうまくできなくて当たり前です。そこには年齢や性別の優劣なんてないし、生活する限り全員にとって「できるに越したことはない」ことです。

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そしてよくよく考えてみれば、「料理ができる」ってどういうことなんだ…?と、思うのです。

レシピを見ないでも「おいしいもの」を作ることができる、手際が良い、キッチンが散らからない、冷蔵庫の残りものでちゃちゃっと一品作る、自分でレシピを編み出すことができる…。

「料理ができる人」と聞いて思い浮かぶのは、そんなイメージでしょうか。だけど、そのどれもできるに越したことはないけれど、できないからといってそれは「料理ができない」わけではないんじゃないか、と、そう思うのです。

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最近土井善晴さんと中島岳志さんの『料理と利他』(ミシマ社)という本を読んだのですが、その中で土井さんはこうおっしゃいます。

「自然の食材を扱う料理は、自然がそうであるようにいつも変化するし、正解はない。というよりも、違いに応じた答えはいくつもあるのです。だから失敗のなかにも正しさはあるかもしれません。」

そしてこうもおっしゃいます。

「今日はおいしいかどうかというのはその日の運みたいな、結果としてついてくるというかね。だからおいしさを望んでないですね。おいしくなくてもいいという、家庭料理はそんなにおいしくなくていいんだよ、みたいな発言もそこからくるんですけども、実際に結果というものは受け止めたらいい。」

と。

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自分は「料理ができない」という思い込みが、そしてそれによって自分が「ダメなんじゃないか」と自己肯定感を下げることそれ自体が、土井先生が言うところの「素材との対話」をストップさせ、そして自分自身の感覚をストップさせてしまうような気がするのです。

かつての私自身が、そうだったように。

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失敗してもぜんぜんいい。ちょっと違ったなと思うくらいでもいい。

最初は、ごはんを準備するたびにキッチンが散らかってしまってもいい。不便を感じたら、散らからない方法や工夫を少しずつ学んだり覚えていけばいい。最初からできなくたって、自己嫌悪にならなくていい。

おいしいものを作りたい、身体にいいものを作りたい、元気になるものを食べたい、その気持ちがあるだけで、すてきなことです。

それはもうすでに、「料理ができる」というスタートラインだと思います。

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アイスム編集長は、「『手抜き料理』とか『ずぼら飯』という言葉がよく使われるけれど、それは『料理』の基準値をすごく高いところに置いている言葉だと思う」とよく言っています。「標準はその『手抜き料理』と呼ばれているもので十分なんじゃないか」と。

私もほんとうにそう思います。おいしい野菜はグリルで焼くだけでおいしいし(私は初夏、毎日そら豆をグリルで焼いていました。)、それに塩を振ると立派な料理です。

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これはお蕎麦屋さんでいただいたおいしいそら豆。

お惣菜を買ってくる時も、冷凍食品を温める時も、そこにはとにかく「食事を準備する」ための作業があります。今日は何を食べるかを予算と冷蔵庫に入っているもののバランスから考えて決めるところから始まり、食べるものを買い、温め、食卓に並べ、そして片付けるという、膨大な作業があります。

それらはすべて立派な、「食をととのえる」ことだと思います。

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旅先のある日のごはん。市場やスーパーで買ったものを、公園でパックのまま食べました(笑)。

誰かにごはんを食べてもらうため、そして自分がごはんを食べるため。

その作業は素晴らしく、尊いものです。

アイスムでは、まずは家族のごはんを準備する人たちに、今もう十分がんばっているんだよ、と、気づいてもらえたらいいな、と思っています。

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冒頭の「となりのおうちの『1週間ごはん』」ですが、取材を受けてくださった方たちも、一週間のごはんの写真を見て振り返りながら、「ああそうか、うちではこういうことを大切にしているんだな」とか、「ここは結構、がんばってるかも」とか、「なんか、改めて見るとうちはうちで毎日楽しそうだな」と、感じてもらえるようで、それがとてもうれしいのです。

みなさんもぜひ一度、一週間のごはんの写真を撮ってみてください。そこにはがんばる日も、がんばらない日も、ハレの日も、ふつうの日もあるけれど、それでもちゃんと、作った人の思いやりと、しあわせが詰まっていると思います。

撮った写真はぜひ、「#アイスムがんばる日 」「#アイスムがんばらない日 」のハッシュタグをつけて教えてください!

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自分のおうちの食卓は、そのしあわせは、自分のおうちにしかないものです。それぞれの家族で、それぞれのしあわせを見つけていけばいいのだ、と思います。困ったときはぜひ、アイスムのエッセイやレシピを読んで、ヒントを見つけてもらえるとうれしいです。そんな風に寄り添っていけるサイトを、目指していきたいと思っています。

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