母が出してくれた湯葉のおすましの記憶と、私が買った生わさびと。

編集部通信

LIFE STYLE
2025.10.29

先日、息子の友達が泊まりに来てくれた。

img_editors_020-01

考えてみれば、息子の友達が遊びにきてくれるのは小学生の頃以来だ。中学校の友達はみんな住む場所がバラバラなので、「ふらりと遊びに来る」ということもなかなかない。

夕飯は手巻き寿司にすることにして、少し遠くのスーパーまで買い出しに行く。中学生男子、一体どれくらい食べるのかよくわからない。いつもよりかなり多めに、お魚をかごに放り込んでいった。

普段あまり行かないそのスーパーには、生わさびが並んでいた。1000円くらいするやつである。目が合った。…よし、買っていこう。

こういう「いつもと違うこと」をすると、「張り切った母」を友達に見せる感じになって思春期の息子がちょっと嫌がるかなと思いつつ、まあイベントごとだし、と思って勢いのままかごに入れた。

ついでに、朝ごはん用のウインナーも買う。いつもは自分たちで準備するスタイルだけれども、友達がきているときくらいは旅館気分だ。せっかくだからもう、お弁当も作ってあげようと、ビビンバの材料もかごに入れた。

デザートの梨と柿とシャインマスカットまで放り込み、パンパンになった袋を抱えてバスで家に帰る。帰ったら早めに仕事を終わらせて、手巻き寿司の準備をしよう。

これはもう完全に、張り切りまくった母ちゃんである。

息子たちが帰って来る前に、急いで下ごしらえをすませておく。

合羽橋の「釜浅商店」で買ったお気に入りの寿司桶を久々に出して、酢飯を作る。クリスマスの時くらいしか出さないアンティークの大きなリュネヴィルのお皿にお刺身を盛る。お醤油は井山三希子さんの小さなピッチャーに移し替えた。もちろん、生わさびも盛り付ける。なんせ生わさびは主役なので、小山乃文彦さんの台皿にのせて、京都の有次のおろし金と一緒に出す。

張り切っている。完全に張り切っている。

img_editors_020-02

「こんにちは。今日はよろしくお願いします。これ、お土産です。」

やってきた友達は、とてもとてもとても礼儀正しく頭を下げてくれた。一年生の頃から仲が良く、いっつも二人で一緒に怒られているという「悪友」とは思えない。あまりにもかわいすぎて、海外出張に行っているそのお友達のママに、「かわいすぎる!!!!」と、LINEをした。うちの息子もよそのお宅でこれくらい礼儀正しくできているだろうか…今日から叩き込もう…。(反省。)

それにしても家の中に男子中学生が二人いる景色というのは新鮮だ。なんかちょっと男子兄弟の母になったような気分にもなる。いつの間にか大きくなったけど、好きな野球の話で盛り上がる姿はまだまだかわいい。カメラを向けると二人でちゃんとピースしてくれる。海外出張をがんばるママに写真を送る。15年母をやってきて気付いたのだけど、私はこういう、誰かと「子育てを共有する時間」みたいなのが、結構好きだ。子育ても一人じゃないと思える瞬間。そういう時間の積み重ねで、なんとかここまで母親業(のようなもの)をやってこられたのかもしれない。

「まだ食べられる?おなかすいてない?足りひんことない?」と、世のおかんが何百回と言うであろうセリフを男子中学生たちに何度も聞き、梨と柿をデザートに出す。明日の朝ごはんと、お弁当も作るよということを伝え、いつもよりたくさん出た洗い物を片付ける。

するとそのさなかに、息子が「いろいろありがとママ!!」と、小さな声で言ってくれた。礼儀正しいかはさておき、この子は本当に、私の子とは思えないくらい素直な子である。今どきの中学生、ちゃんとこうしてうれしい気持ちを親にも出してくれるのだ。

img_editors_020-03

そんな息子を見ながらふと、自分が大学生の頃、京都の実家に、東京の大学の友達を連れて行った時のことを思い出した。

あの時母は、いつもは買わない湯葉を買ってきて、おすましを作ってくれた。「うちではいつも湯葉のお刺身やねん、京都やから」と、冗談っぽく言って、友達を笑わせた。私も「そうそう、うちは湯葉やな、毎日」と言って本気にしたふりをして笑った。

あの母の「よそいき」の感じ、友達が来てくれることで張り切ってごちそうを作ってくれた感じ、それが私はすごくうれしかった。母が空回りしているようにも、張り切っていて恥ずかしいなあなんて感じることもなかった。ただ単純に、とてもうれしくて、少しだけ誇らしかった。少し遠くのパン屋さんで買ってきてくれたおいしいパンも、いつもは使わない小岩井の瓶詰めのバターも、普段の食卓にはあまり上がらないおしゃれな器も、その全部が。

img_editors_020-04

息子ももしかしたら、同じだったのかもしれないなあ、と思う。いつもと違う、少し特別な夜の食卓で、自分が誰かに大切にされていることを、なんとなく感じとっていたのかもしれない。なんとなく、あの日の自分と、息子が重なったような気がした。亡き母がこうしてふと心の中に現れるように、息子にも誰かに大切にされていた記憶が、ずっと残っていくといいなと思う。

ちなみに、生わさびは誰も食べなくて私が一人ですりおろして一人で食べたわけだけれども、それもまた、秋の始まりの良き思い出です。たまにはいつもと違う特別な食卓も、いいものだね。

この記事をシェアする