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旅、仕事、自分時間、そういうものだ。

編集部通信

LIFE STYLE
2026.03.23

あまり記憶がないのだけれど、娘の受験の直前期である12月と1月、いよいよ何をしていいのかよくわからなくなってきた私は、何を思ったのかひたすら受験後が終わる2月と3月の旅行の航空券を調べまくっていた。

ChatGPTに、家族全員のスケジュールを全部投げ込み、そこから3泊や4泊、場合によっては1週間で旅に行ける日程候補をすべて挙げてもらい、そして何を思ったのか、その全てのスケジュールで航空券を取っていた。まじで、もうよくわからない精神状態になっていたのだと思う。

結果、今私は、旅行に追われまくっている。人生でこんなことは、大学生の就活が終わったとたん「社会人になったらきっと二度と旅行なんていけなくなるんだ」と思い込み、親に借金をして旅行に行きまくっていたあの時くらいだ。それくらいとりあえず、旅行に追われまくっている。

しかしあまりに旅行に追われすぎて、今回私はいつも以上に、仕事にも追われていた。

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あまり仕事に追われているようには見えない写真だが追われています。

フリーランスという働き方は、プライベートと仕事の境目が曖昧になることはあるあるなのだけれど、私の場合、旅行でそれが顕著に現れる。

3月に訪れた娘と二人の宮古島の旅でも、案の定私はあれこれと仕事の「やらなきゃいけないこと」だったり「気になってそわそわすること」に、頭と心の大半をとられていた。

一人旅や家族旅行なら私だけが対応すればいいのだが、娘との二人旅となるとその間娘には待ってもらう時間が発生することになり、申し訳ないなあと思うこともしばしばだ。

同時に、自分自身でも「なーにをやってるんだか」と、思う気持ちもある。目の前には美しいエメラルドグリーンの海が広がっている。春の波の音は心地よく優しく響く。3月の宮古島は気持ち良い風が吹き毎日気持ちが良い。ところが私は、まだ戻りがない原稿のどこがダメだったんだろうか…と、くよくよと考えてたりする。

元々旅好きだった私は、こうならないためにフリーランスという働き方を選んだところもあった気がするのだけれど、これじゃあ旅先で会社の貸与スマホをチェックしていたサラリーマン時代と変わらない。見方によってはさらにワーカホリックになっている気もする。とりあえず、エメラルドグリーンにも謝った方がいい。ごめん、自然の恵。

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頭の半分以上を仕事にとられながら、もうすっかり暖かくなった宮古島のホテルで、ひたすらに1キロほど泳いだ。なんといっても娘の受験の1ヶ月間、体を動かすこともほとんどしていなかったため、久々の運動だった。

ランニングや水泳といった運動をする時の一番のメリットは、物理的にスマホに触れないことだ、と思う。余計なことを考えず、強制的に「今」に集中することになる。ただひたすらに、プールの向こう側を目指す。もう余計なことを考えている場合ではない。手と足をリズミカルに動かし、一定の呼吸を続ける。

そうするうちに、頭が少しずつクリアになっていく。

そこでふと、「ああそうか、自分の時間は、こうやって自分で作るしかないのだなあ」と、思った。時間はみんなに平等にあるはずで、それをどう使うかは、最後は自分で決めていかなきゃいけない。日常でも、旅の途中でも。

昔読んだカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』(早川書房)という小説に書かれていた一節を思い出す。こういう文章だ。

神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受け入れる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ

非日常であるはずの旅の途中に、日常のあれこれが気になってしまうのは仕方がない。それぞれ実は地続きでくっきりと分かれているものではないし、そこには自分には変えられない物事も多く含まれているから。

だけど、それについていつ考えるのか、いつ作業するのか、時間を決めることは自分にもできる。そもそも、この働き方を選んだのだって自分なのだ。

宮古島にいる間、私はとにかく仕事や家周りや新年度に関わる事務作業をできるだけ午前中に終わらせようと決めた。その間、娘には待ってもらう必要があるけれど、よく見てみると、娘は娘で私が自分のことをしている時間、えらく楽しそうにのびのびと動画を見たり本を読んだりしていた。

自分の時間は、誰かの時間にもなりうるのだと、私は知った。

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ちなみに、このカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』という小説はちょっとへんてこりんな小説なのだけれど、何度も何度も同じフレーズが繰り返される。「そういうものだ」というフレーズだ。私はこの「そういうものだ」が結構好きで、ことあるごとに、自分でも何度も頭の中で繰り返している。
なにかと忙しない日常には、「やらなきゃいけないこと」だってあふれている。新年度の手続きで終わっていないあれこれもずっと頭の隅にひっかかり、そういえば確定申告の期限だって近づいている。この原稿も書き上げなければいけない。でもそれは、仕方のないことだ。確定申告の期限は変えられない。そういうものだ。

だから「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」の、そのバランスを、自分で時間を見つけながら、決めていくしかないのだと思う。それは、日々の生活でも、同じだ。

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そうして過ごしてみて気づいたことは、旅には「やらなきゃいけないこと」なんて、実はほとんどない、ということだ。「やりたいこと」はもちろんあるけれど、それは「やらなきゃいけないこと」ではないはずだ。だから旅ではあんまり「やりたいこと」に振り回されすぎないでいよう、と思う。「できたらいいな」と思いながら、余白を持って過ごしていけるといい。

思い返した時に記憶に残る景色というのは、その瞬間にはわからない。高級レストランのステーキではなく、パイナガマビーチで食べた油味噌とキャベツ。シュノーケリングツアーで見た熱帯魚ではなく、バスとフェリーを乗り継いで自分たちで行った小さな島の漁港で見た珊瑚たち。その時には特に印象深いと思ったわけではなかったはずのそういうものが、あとから振り返ると強く記憶に残っている。
それは「記憶に残そう」と狙ったものではない。思い出作りをしようと張り切ったものでもない。
だから今、仕事や家事や家のことにバタバタと追われつつ出かけているこの旅も、あとから振り返ると、なつかしい思い出になるのかもしれない。
同じように、やらなきゃいけないことに追われながら過ごしている今の毎日が、振り返った時にとても愛しいものになっているのかもしれない。
大切なものはきっと、あとからわかるのだ。そういうものだ。

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