「こんなとき」を支えてくれる、ミルクティーの想い出

晴れでも雨でも食べるのだ。 #1

2020.05.13

食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」第一回のテーマは「ミルクティー」です。奥村さんとミルクティーの周りには、どんな景色が広がっているのでしょうか。


「こんなときなのに来てくれて、本当にありがとね」

ある日の夕方、馴染みのティースタンドのおじさんが言った。「こんなときに」とは、世の中がこんなときに、ということだろう。外出自粛が要請される一ヶ月以上まえだったが、人々のあいだにわずかばかりの不安が芽生え、じりじりと生活を浸食しはじめた時期だった。

いつも陽気なおじさんの予想外のセリフに、わたしは胸をぎゅっとしめつけられると同時に、「こんなとき」なのにあたたかく声をかけてくれる懐の深さに感じ入り、心に張りつめていたものが一気にほどけた。横断歩道を渡りながら、思わず泣き出しそうになった。

街の一角のティースタンドで買うミルクティーは、わたしの活力の源で、なくてはならない存在だ。甘く、やさしく、なつかしく、陽だまりのようにあたたかい。とりわけ、いやなことがあったり疲れたりしたときには、薬みたいにじわじわと効いてくる。

その日も、朝からてんやわんやで、思わぬハプニングや失敗もあってため息をついていたところだった。静かな休息と癒やしを求め、わたしは自分だけのために、自転車を走らせたのだった。

「世の中じゃなくて、わたしが『こんなとき』だから来たんです。いつも、あなたが作るミルクティーに救われているんです。」

そんなセリフが喉元までせり上がってきた。ありがとうを言いたいのはわたしのほうだった。

ベンチにすわってホットミルクティーを飲んでいると、見上げた空の薄むらさき色はちょっとだけ哀しくて、ちょっとだけ明るくて、うっとりするほどうつくしかった。

物心ついた頃から、コンビニや自販機で買う飲みものは十中八九ミルクティーだった。「紅茶花伝」のパッケージにひとめ惚れしたのがすべてのはじまりだったと思う。

家族でドライブにでかけた帰り道、夜道をちかちかと照らす蛍光灯のもとで、青と白のお上品なパッケージに身を包まれたミルクティーに、わたしはぼうっと見惚れていた。

父から小銭をもらって自販機に投入し、ボタンを押して缶をとりだす。手から伝わる温度にほっとしながら、ふと夜空を見上げると、そこには星が瞬いていた。ミルクティーの湯気が星空に吸いこまれていくさまを眺めていたら、怖いものなどなにもない気がした。

車に戻ると、両親が好きなユーミンや井上陽水、当時流行っていたPUFFYや宇多田ヒカルの曲が流れていた。わたしは後部座席でミルクティーを飲んでちょっぴり大人びた気分に浸りながら、BGMにあわせて体を揺らしたり、妹とくだらない話をしたり、気分よく熱唱したりした。それがどんなにしあわせな時間だったか、今ならとてもよくわかる。

「家についたよ」

はしゃぎ疲れていつのまにか眠ってしまったわたしは、社宅の駐車場についた頃、母の声でようやく目を覚ますのだった。

ミルク色の、なつかしい記憶だ。

***

人生において、ミルクティーはわたしの心強い味方であり続け、「こんなとき」にいつも寄り添ってくれた。

脳内にこだまする友だちの一言に心をひりひりさせながら、走り疲れた足で歩いた田舎のあぜ道。試験や面接の直前に、心を落ち着かせるために入った喫茶店。

冬の朝、都会のからっ風に吹かれ、冷たい手をさすりながらバイト先まで歩いた道。仕事帰り、電車から降りた瞬間にとつぜん押し寄せてきた虚しさの波にのまれ、トボトボ歩いた家路。

思春期も、学生時代も、社会人になってからも。孤独の淵にいるときも、緊張で足が震えているときも、踏ん張らなければならない大事なときも。ひとりで道を歩くときには、ミルクティーが必要だった。

たまたま目に入った自販機。お腹を空かせて立ち寄ったコンビニ。そこにさりげなくいてくれる、あの日の夜空に瞬いた星のような存在をみつけるだけで、心がほぐれ、ほっと安心できるのだった。

人もモノも、つらいときにそばにいてくれた存在は、信頼できる。わたしは今も、ミルクティーに絶大な信頼を置いている。

ティースタンドに通いはじめて、一年半ほどになる。

ひとりで歩くときは、いささか切実な味がしたミルクティーに、「お、いらっしゃい」という店員さんの明るい声や、近くの公園の木々の揺らめき、ベンチを包む木漏れ日、ゆずの実やさくらの花、午後五時になると遠くからきこえてくる夕焼け小焼けのメロディー、薄むらさき色の空に浮かぶ白い三日月がトッピングされるようになった。

茶葉の香りに心地よく包まれながら、春の日差しのようにやわらかな砂糖の甘みやミルクのまろやかな口あたり、真紅の絨毯のように濃厚な紅茶の味わいをじっくりとたのしむ時間は、贅沢の極みである。

ベンチにすわって、自分の心と向き合ってみる。

うれしい。かなしい。たのしい。つらい。おもしろい。退屈だ。

ひとつの言葉、ひとつの色でくくれるほど単純な感情なんてめったにない。心は天気のようにめまぐるしく変わっていくし、自分ですらよくわからないこともある。

上手く対処できない。伝えたいのに伝えられない。すべてを放り出してしまいたい。無力さにため息をつく日だって、赤ちゃんみたいにわんわん泣きたくなる日だって、たまにはある。

そんなとき、真っ白でも、真っ黒でもない、甘いだけでも、渋いだけでもないミルクティーは、おなじくあいまいで矛盾だらけな人の心を静かに受け止める。酸いも甘いも、平等に。

ふかしすぎた濃い紅茶のように苦い出来事も、いつしかミルクやお砂糖とまざりあい、深いコクとなって人生をおいしくしてくれるかも。

白か黒でなくても、完璧でなくても、わたしはわたしを、あなたはあなたを、堂々と表現していいんだ。

そう思わせてくれる馴染みの味が、今をそっと支えてくれる。

うつくしい言葉を口にすればするほどに虚しくなってしまう「こんなとき」。通りすがりの得体の知れない言説に、ふらりと引き寄せられそうになる「こんなとき」。

ミルクティーを飲みながら、心のともしびとなる記憶と言葉をかき集める。ひと息ついて世界にじっと目を凝らし、信じられる人やモノに焦点を当て、大切な、心とからだの根っこの部分だけ、まずはどうにか守ってみる。いったんはそれでよしとしよう。

いつかの星空。きらめく木漏れ日。つい口ずさんでしまう歌。あの人の言葉。

好きなものにまつわるかけがえのない記憶をみつけて、遠慮なく頼ることができたら、現実に向かうための、ちゃんと立って歩くための、小さいけれど自分の核となる力を得られるかもしれない。

そしてもしも、力がほんの少しでも余ったら、自分のペースでどこかに小さな花の種を蒔きたい。それがわたしにとってのミルクティーのように、だれかの「こんなとき」を救うかもしれないから。

奥村まほ

1992年、富山県生まれの文筆家。中央省庁とIT企業での勤務を経て、フリーで執筆・編集を軸に活動中。なにげない日常の煌めきや食べ物の記憶を言葉と写真で切り取るのが趣味で、おやつとミルクティーとスパイスカレーをこよなく愛す。note(https://note.com/kiizukimaho)では食べ物や暮らし、生き方にまつわるエッセイを投稿している。ポプラ文庫『夜更けのおつまみ』にエッセイ掲載。

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