黄金色のハイキング
食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回は、奥村さんが三年ぶりにでかけたという、尾瀬でのハイキングのお話です。秋の尾瀬で奥村さんが見たもの、そして味わったものはどんなものだったのでしょう。
あれは山歩きを始めて間もないころ。私は生まれて初めて、美しい風景を前にして言葉を失い、立ち尽くすという経験をした。
のどかで、静かで、視界をさえぎるものが存在しない世界。目の前には一本の道が伸び、遠くには青々と燃える山がそびえている。池や沼には空が鏡のように映り込み、その中を雲がゆっくりと流れていく。
道の両側では、草花が小さく揺れる。耳をすませば、生きものたちの吐息が聞こえる。すべてが光に包まれて、幻想的な光景だった。
歩かなきゃ。この道を、歩かなきゃ。
そう思った。
それが、尾瀬との出会いだった。
三年ぶりに「遥かな尾瀬」へ
山の美しさを教えてくれた尾瀬に、先月、三年ぶりに訪れることができた。ここ数年は、日程や気候、外出制限との兼ね合いで機会に恵まれなかったのだが、ようやくチャンスが訪れた。
登山シーズンはもう終盤。ここを逃したらまた来年になってしまう。雨やくもりの日が続く中、奇跡的に晴れそうな日を狙ってハイキングをすることにした。
尾瀬は、山々に囲まれた美しい湿原地帯だ。福島県、新潟県、群馬県、栃木県の4県にまたがる広大な土地で、たくさんの動植物が暮らしている。水芭蕉やワタスゲ、ニッコウキスゲなどの花が咲く春から夏のシーズンが全盛期とされ、童謡『夏の思い出』では「遥かな尾瀬〜♪」と夏の代名詞として唄われている。
でも、今回の訪問は秋。花はほとんど咲いていない。その代わり、一面の草紅葉が美しいと聞いた。
今年はどんな尾瀬に出会えるんだろう?
どきどきしながら車に乗った。
こだわりのご当地スーパーで
今回のハイキングでは、高崎経由で登山口の近くまで車で行き、駐車場で車中泊をした。
同じルートをすでに経験済みの夫が、「高崎においしいものしか置いていない最強のスーパーがある」と言うので、まずはそこで食料を調達することに。この全国に一店舗のみ、高崎にしかない「スーパーまるおか」は、社長自ら選び抜いたこだわりの品のみを売っているというだけあって、見るからにおいしそうなものばかりが並んでいた。
入り口付近の冷蔵庫には、洋菓子店のエクレアやシュークリーム、カヌレがぎっしり。お惣菜はどれも照り輝き、食欲をそそる色をしていた。お菓子コーナーにはミレービスケットやチロリアン、老舗和菓子屋の栗ようかんなど全国のご当地スイーツが所狭しと並び、眺めているだけでも楽しい。駐車場では、冷凍食品の自動販売機を発見した。なかなかおもしろいスーパーだ。
どれもおいしそうで困った……。一体どうやって選べばいいの?
私たちは悩みながらも直感で食べたいと思ったものをどんどんカゴに入れ、その日の晩ごはんとハイキング当日の朝ごはん、おやつなどを一気に揃えた。夕日で染まる空の下をドライブしながら、その日の宿となる駐車場に向かった。
「よし、いっぱい食べよう!」
お寿司、唐揚げ、八宝菜、なすのそぼろあんかけ……。駐車場に着くやいなや、買ってきたものを次から次へと取り出していく。
次の日に備えてたっぷり栄養をとらなければならない。ためらいは一切不要だ。
お惣菜をお腹いっぱい食べ、食後には別腹のエクレアも完食した。最強のご当地スーパーのおかげで、エネルギー補給は万全。おにぎりやお菓子をリュックに詰めて、遠足前夜の気分で眠った。
輝く食べもの
朝5時過ぎ、寝袋の中で目が覚めた。
やったあ、晴れてる!
さっそく車とバスで登山口に向かい、山道を歩き始めた。
今回のコースは、大まかにいえば湿原地帯をぐるりと回ってスタート地点に戻ってくるというもので、往復約7時間、20キロちょっとを歩く計画だ。山に登るわけではないとはいえ、多少の高低差はあるし、でこぼこした道もあれば、登りが続いて息が切れる箇所もある。
登山をしている人間としてあるまじき、山道を歩くことが苦手な私は、開けた場所に出るまでは「ねえこれいつまで続くの?」といつものように文句たらたらだった。
「休憩場所まであと1時間」「あと30分」「あと15分」「あとちょっとだから」
夫のかけ声を頼りに、これから出会う雄大な風景と、リュックの中のごはんやおやつのことだけを考えながら歩いていく。「こういうものだ」と言い聞かせて淡々と生きることができない私は、楽しい未来を思い描かなければ、山道を歩き続けられないのだ。
けれども山は、そんな私にとてもやさしい。
文句を言おうと、途中で止まろうと、歩けばちゃんと、たどり着く。
まさかの事態が起きない限り、努力が必ず報われるのだ。
「ほら、開けた。いったん休憩。」
顔を上げると、黄金色の平原が目の前にあった。
大好きな尾瀬に、またやってきたんだ。
ようやく実感し、よろこびが込み上げた。
ベンチに腰をおろし、牛しぐれのおにぎりを食べ、
チョコレートを食べ、
お稲荷さんも食べる。
さらに、前日のドライブ中に汲んだ湧き水をごくごく飲んで、私はみるみるうちに回復した。山では、水も、お米も、砂糖も塩も、余すところなく心と体のエネルギーになっていく。
遠くまで続く平原。青空と草紅葉の美しいコントラスト。陽光を浴びて輝く食べもの。
はあ、最高。
これだから、山歩きはやめられない。
単純な人間は、こうしてまた、山から逃れられなくなってしまった。
黄金色に包まれて
秋の尾瀬は、どことなく哀愁が漂い、歩けば歩くほど味わい深かった。大人の尾瀬、といえばいいのだろうか。きらきらとまぶしい夏の尾瀬も好きだけど、この時期の落ち着いた雰囲気もなかなかいい。尾瀬を初めて訪れたときのような衝撃はなくとも、心にじわじわと染み込んでいく風情がそこにはあった。
しんみりと温かく、時々、淋しさがきらめくような草紅葉。
その中に身を置いていると、過去とか悩みとか雑念とか、そういったものを大地がすべて受け止めてくれているような気がして安心する。
秋の尾瀬は、歩く場所というよりも、立ち止まる場所なのかもしれないと思った。
この道を歩いてきてよかった。
黄金色を目に焼き付けた。