また会いましょう

晴れでも雨でも食べるのだ。 #35

LIFE STYLE
2023.04.26

食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回は、淡いピンクがかわいらしい、桜スイーツのお話。奥村さんと同じく、新生活を迎えたみなさまの毎日も、桜のように優しい日々でありますように。


東京の桜が満開を迎えたらしい。3月下旬、私はふうんと思いながらニュースの天気予報を見ていた。今年は史上一位タイの早さで開花し、入学シーズンにはもう葉桜になるという。そんなにせっかちにならんでも、とテレビの前でつぶやいた。

この季節、いつもならわが家では、週末はどこどこの桜祭りに行こう、などと遠出の話題が出るものだが、今年はそういうわけにもいかなかった。夫の仕事の都合で東京を離れることになり、引越しで頭がいっぱいだったのだ。手続きも片付けも大の苦手。その上予期せぬトラブルも重なって、てんてこまいな毎日だった。

からっぽの本棚に、からっぽの机。茶色い段ボールの山。今すぐ役に立つもの以外は、すべて捨てるか箱にしまった。荷造りにはある種の無慈悲さが必要で、だんだんと自分の心までからっぽになっていくような、妙な虚無感におそわれていた。

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そういえば最近、ずっと下ばかり見ていたなあ。

後悔の念が湧いてきたのは、片付けがようやく落ち着いたころ。桜のピークもそろそろ終盤というニュースを見て、私はとたんに焦りはじめた。近所の公園で陽光桜を見かけたきり、たぶん一度も桜を見ていない。

ひと段落ついたことだし、ひさしぶりに公園に寄ってみよう。

買い物がてら、遠回りして自転車を漕いだ。

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桜といえば、食べるほうの桜も忘れてはいけない。

桜ラテ、桜シフォン、桜あんぱん……。春一番が吹くころから続々と並びはじめる桜と名のつく商品を、私はいつも嬉々として買ってしまう。

花見の機会が少なかった今年も、桜スイーツはよく食べた。てんてこまいな日々をどうにか乗り越えられたのは、桜スイーツのおかげと言っても過言ではない。

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食べるほうの桜の魅力は、幸福感の漂う朗らかな見た目はもちろん、その味にあると思う。

桜という名前にも見た目にもぴったりと合う、なんともいえない雅な香りと風味。桜の葉に含まれる「クマリン」という成分によるもので、桜の葉を乾燥させたり塩漬けにしたりすることで生じるらしい。

はじめて桜を食べようとした人は、その美しさの虜になって、自分の体に取り入れることで一体化したいと願ったのかもしれない。あるいは、儚く散ってしまう桜を永遠に手元に置いておきたくて、塩漬けにしてみたのかもしれない。

桜の葉から生まれる芳醇な香りと風味を見つけたとき、ああ、桜はやっぱりどこまでも美しかった、と心を揺さぶられたのではないだろうか。

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数ある桜スイーツのなかでも特によく食べているのは、やっぱり桜餅だ。私も夫も、街で見かけるたびに買ってしまう。ちょっと食べ過ぎだろうか。数えてみると、ここ最近は週に一回食べた計算になる。

クレープ状の生地に包まれた関東風の「長命寺」と、もち米由来の道明寺粉で作られた関西風の「道明寺」。きのこ・たけのこ論争に匹敵するほど甲乙つけがたい。どちらも好きだから、こだわらずに目についたものを買っている。

今年初めて食べた桜餅は、深川 榮太郎の長命寺だった。薄くやわらかい生地とたっぷりのこしあん。塩漬けされた大きな桜葉。赤ん坊のおくるみのように、春の甘さがやさしく包み込まれていた。

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次に食べたのは、叶 匠寿庵の道明寺。パッケージに目を惹かれた。草餅とセットで購入し、一緒に皿に並べて食べた。生地の透明感と艶。まるっこいフォルムとつぶ感。パクリと食べてぴょんぴょんと跳ねたくなるような、かわいらしい春が詰まっていた。

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桜の花がちょこんとのっているのは、たねやの道明寺。特徴は白あんだ。ほお紅をさした肌のような薄紅色に染められている。なめらかで上品で、甘さはひかえめ。その奥ゆかしさがたまらない。

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寛永堂の道明寺は、とにかくシンプル。葉も薄めだ。飾り気がないぶん、道明寺特有のつぶ感とこしあんのきめ細かさをダイレクトに楽しめる。

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東京で最後に食べたのは、元祖いちご大福の店として名高い大角玉屋の桜餅。長命寺と道明寺の食べ比べができる。どちらも生地がもっちりしっとりしていて、こしあんは甘くてほっくほく。桜の葉もシャキッと存在感がある。春の陽ざしにぴったりな、手作りの温かみを感じられる味だった。

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写真は撮り忘れてしまったが、鶴屋吉信の道明寺もおいしい。生地はもちもち、あんは甘すぎず、桜葉は大きくやわらかい。塩加減もちょうどよく、さすが老舗の和菓子屋さん、と唸ってしまうバランスのよい味だ。

春は出会いと別れの季節。桜はその象徴。そう言われてもピンと来ない春ばかりを過ごしてきたが、今回ばかりは少し違う。

上京してから十年以上、気づけば地元で暮らしたのと同じだけ長い年月を過ごしてきた土地を離れることになったのだ。毎週のように自転車に乗って和菓子を買う日々も、しばらくはやってこないかもしれない。

東京の桜はまだ咲いているだろうか。

自転車をとめ、少し不安に思いつつ歩いていくと、小さな公園の脇で、ソメイヨシノが白く輝いていた。無数の花が集まって、手鞠の模様のように愛らしく咲いている。そばでは幼い子どもたちがきゃっきゃと弾けるような声を上げていた。

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引越し先の沖縄にも桜はあるが、ソメイヨシノは咲かない。ソメイヨシノは、5℃前後の低い気温が一定期間続かなければ、休眠から目覚めないそうだ。春の光に溶けそうな淡くやさしいあの色は、寒さがあってこそ生まれるものなのだ。

いったん見納めとなるソメイヨシノの色は、目の奥に深く染みこんで、いつも以上に胸に迫ってくる感じがする。

また会いましょう。

風に舞う花びらを胸の片隅にそっとしまい、再び自転車を漕ぎはじめた。

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