おにぎりの魔力

わが家の笑顔おすそわけ #12 「おにぎり」〜甘木サカヱさんの場合〜

LIFE STYLE
2021.02.21

おにぎり。なぜこんなに頼もしく、そして不思議なパワーを持っているのだろう。

茶碗に白いごはんを盛り、梅干しと海苔を添えて出しただけなら、食事としてはどうにも寂しすぎる。それが、ごはんの中に梅干しを入れて握り、海苔を巻いただけで、立派な一品「おにぎり」として、堂々たる風格まで漂わせるのだ。

弁当にするときだってそうだ。おかずのない日の丸弁当なんて今の子どもたちは目にしたこともないかもしれないが、それだって握ってさえしまえば、ごく当たり前のお弁当として成立してしまう。

この、米が握られた途端にまとう、謎のパワーは一体なんなのか。

子どもが産まれて、私のおにぎりへの信頼と畏敬はさらに深まった。小さな子どもというのは、たとえお腹がペコペコでも、少しでも気にくわないことがあると皿をひっくり返し、目の前の食事に頑なにそっぽを向く生き物だ。子どもが喜ぶような可愛くて色とりどりのメニューを毎食揃えることなぞ、ズボラな私には到底無理だし、何とかして一日三食、それなりのごはんをそれなりに食べてもらわないと、親としてはたいへん困るのだ。

そこで大正義、おにぎりの出番だ。子どもにそっぽを向かれた茶碗のごはんをラップに乗せ、おかずの卵焼きなどがあれば中に入れて、ふりかけや、ちぎった海苔などをまぶして小さめに握る。みるみるうちに子どもの目は輝きだし、差し出されたそばから、ぱくぱくと一生懸命に食べ始める。

構成要素は何も変わっていやしないのに、ただおにぎりにしただけで何がそんなに違うというのだろうか。顔じゅうにごはん粒を付け、満足そうに「ごちそうさま」をする我が子を眺めながら、毎度つくづく不思議に思ったものだ。

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この、「おにぎりにしただけで何故か食欲をそそられる現象」、決して子どもに限ったものではない。もう食事どきに駄々をこねるような幼い子どもがいない我が家でも、炊きすぎて余った白いごはんを、明日の朝食にでもしようと、ゆかりのふりかけなどを混ぜておにぎりにし、食卓に置いておく。すると次の朝を待たず、いつの間にかきれいになくなっている。食欲旺盛な受験生の息子や、夜中に小腹を空かせた夫が、一つ二つと口に運ぶらしい。炊飯器にごはんが残っているだけでは、決してこうはならない。やはりおにぎりには、自らを人間の口へと誘いこませる魔力のようなものがあるに違いない。

そういえば幼い頃、休日に家族で遠出するときのお弁当は、いつもおにぎりだった。

近くにコンビニなどない田舎町だったから、朝早くに家を出るとき、車内で食べる朝ごはんを持っていく必要があった。まだ薄暗い台所で、握りたてほかほかのおにぎりが大皿に並んでいるのを見ると、これから楽しい一日が始まるのだと、飛び跳ねたいくらいわくわくした。

早朝の車窓に流れる景色を見ながらアルミホイルを開いて、海苔がしんなりとした、まだ温かいおにぎりをほおばった記憶は、何十年経っても鮮やかなままだ。

そういえばコンビニのおにぎりが登場するまで、おにぎりの海苔といえば、しんなりしているのが普通だった。今では当たり前になった、あの三角形の頂点からフィルムを引っ張って両側に開くパッケージも、慣れないうちは家族で顔を寄せ合い、恐る恐る開けたものだ。

おにぎりの具のバリエーションがどんどん増えていったのも、やはりコンビニの台頭も関係があるのだろう。それまでは家庭で作るおにぎりの具といったら、せいぜい梅干し、おかか、昆布くらいのものだった。コンビニの登場は、おにぎりの歴史の中でも随一のエポックメイキングな出来事かもしれない。

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父方の祖母はよく、味噌おにぎりを作ってくれた。塩むすびの最後の仕上げに、生味噌を手のひらに塗り、その手でおにぎりをぎゅっと握るのだ。気の利いた居酒屋などで味噌焼きおにぎりなどが〆のメニューにあったりするが、祖母のは焼いたりせず、そのままの味噌の甘味を味わうものだった。

懐かしくなって自分でも真似してみたことがあるが、味噌が違うからか、それとも年季が足りないのか、記憶にある豊かで滋味にあふれた味とは違う、どこか寂しい仕上がりになってしまった。

そういえば母の握るおにぎりの具はいつも、やわらかい甘い梅干しだった。他に具のバリエーションがあることはめったになかった。母はどうも、昔ながらの塩辛い梅干しに、憎しみにも近い感情を抱いていたのでは、という気がする。

もらい物の塩辛い梅干しに決して手を付けようとしなかったことを思い出す。貧しい育ちの母は、きっと幼いころから塩辛い梅干しを頼りにごはんを食べてきたのだろう。甘い、やわらかい果肉たっぷりの梅干しは、母が貧しさから脱却できた証拠でもあったのかもしれない。

一方、娘である私は、昔ながらの塩辛い梅干しが大好きで、自分で漬けて常備している。甘い梅干しも決して嫌いではないけれど、口に入れると唇がすぼまるような、思い出しただけで口の中に唾液が溢れるような、塩辛く酸っぱい梅干しが好きだ。

おにぎりの具にももちろんよく使う。丸ごと入れるとさすがに塩辛すぎるので、種を取り除いた一粒を、三つほどにちぎる。炊き立てのごはんを茶碗に軽くよそい、真ん中をくぼませて、梅干しの一かけを乗せる。一緒に漬けてある赤紫蘇の葉も少しだけ。ごはんを少し乗せて蓋をし、両手に塩水をまぶしてぎゅっぎゅっと握る。

皿に並べたおにぎりに、海苔を巻いていく。贅沢をしたい気分のときは、半分に切った海苔を豪快にばりばりと巻く。普段はだいたい1/3に切った海苔だが、米と海苔の見た目のバランスは、1/4切りの方が良い。昔話『おむすびころりん』に出てくるような、絵にかいたようなおにぎりになる。

おにぎりはその形も秀逸だ。三角形のおにぎりは、三角というには角がまろやかで厚みがあり、まさにころりんと転がりそうな愛らしさがある。

また、丸いおにぎりのなんともいえない優しさ、そして俵おにぎりのどっしりとした存在感もすばらしい。考えてみれば、こんなに持ち運びやすく、また片手で食べることができるという手軽さ、携帯性に特化した主食の形態がほかにあるだろうか。

ずっしりとして、少々の圧力を受けて変形したって平気だ。片手で持って、ストレスなくどんどん食べられる。まるで携帯食になるべくして生まれたようなジャポニカ米が、いかんなくその能力を発揮する料理、それがおにぎりだ。

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手でつかんで食べることは、人間の食欲の根っこの部分、まさに生きるための食欲を喚起するのではないだろうか。骨付き肉や大きなハンバーガー、そして大きなおにぎりを手づかみでかぶりつき、食べ尽くし、なんなら指についた米粒の最後の一粒をかじりとるとき、心の底から「生きてる!」と感じるのだ。

出来上がったおにぎりをアルミホイルで包もうとすると、いつの間にか皿から二つ三つ消えている。見ると、匂いをかぎつけてやってきた子どもたちが、隣の居間で口をもぐもぐさせている。

おにぎりの魔力には、誰も逆らえないのである。

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